『錦繍』
昨日の酒量 プレミアムモルツエール350×1
福田のグランドスラムで大逆転の報を知り、嬉しくは感じるものの、こんな打棒を驚きとともにではなく、当然のごとく期待できる筒香との違いの大きさをも、また強く感じさせられる試合展開であった。井端のインタビューに答える大島が、今の1軍には自分が試合に出ることで精一杯の選手が多いのでまだまだだという趣旨の発言をしていた(表現はもう少し丸めていたけど)のは、こういうことなのだろう。満塁で福田が出てきて、きっとHRを打つに違いないと心から思っていたファンはどれだけいただろうか。そんな選手に成長することを待つ時間はとうに過ぎているような気もするため、とても複雑な気分だ。
さて、夏休み用に買いだめした文庫本の中から、まず宮本輝の表題作を読み終えた。多分10年ぶりくらいに手に取った宮本作品ということになる。本作は初期の作品に分類されることもあって、まさに筆者らしい作品と感じるのだが、昭和50年代の女性の言葉使いの古さを横に置くとしても、書簡体の不自然さがどうしても目立ってしまう。後に残る手紙という形式の上では、どうしても書けないことがあるはずで、ましてやこの2人の間の長年の屈託を思うと、赤裸々に思いの丈を書きあうことがそんなに簡単にできるものなのかという疑問が湧いてしまい、作品世界に入り込みにくく感じた。もちろん小説中では、心のひだを書き合えるまでの簡単ではない過程も経たという形がとられているのだが、でもやっぱり、そんなに簡単じゃないよなあと感じてしまうのだった。書こうとして書けなかった事が何かをも読み解くことができるような小説だったらなあと思うが、書簡体のみでこれを表現するのは相当に難しかろう。
ここまで書いて不意に思い出したのだが、増田みず子『シングル・セル』(1986年)。稜子が椎葉に心の内を明かした手紙には、最後の最後に、半分が本当で半分が嘘と書かれており、読んだ主人公は、半分が本当で半分が嘘という中にも半分の本当と半分の嘘が混じっているのだろうと受け止めるくだりがあったはず。手紙とはこういうものだよなあと思う。
『錦繍』は『青が散る』と同じく1982年の作なので、数えてみると作家は当時35歳。当然といえば当然だが、宮本輝にして中年期の男女を書くにはまだ若かった時期があるのだなあということを感じるのは、自分が年を取ったせいであろう。